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「隕石とじゃがいもは似ている」 作:小川晴央
抱っこ紐の中で寝息を立てる清太郎の前髪が、ふわりと揺れた。
その風の中に人の気配を感じて顔をあげると、一人の青年が立っていた。
公園に入ってきたところも、光を反射する水たまりを飛び越えるところも、花壇を回り込んだところも、私は見ていない。
「お姉さん、こんな時に、こんなところでなにやっているんですか?」
青年は挨拶も社交辞令もなく、ぶしつけに質問を投げかけてきた。
「別に、ただ、ブランコへ乗りに」
「ブランコに? ブランコって、子供が乗るものでしょう?」
極端に決めつけながら、青年は、ブランコの鎖を目で追った。
青年のすっきりとした顔立ちは、若さを感じさせる。ただ大学生なのか、社会人なのか、はたまた高校生なのか、判断が付かない。
私は仕事で、入れ代わり立ち代わり、様々な人と話す。そのつど相手の外見から年齢や仕事を推測するのだが、予想が外れることがあっても、予想すらできないのは、今回が初めてだった。白いシャツと、濃いデニムのジーンズ、セットしたわけでもない自然な髪型。そんなシンプルな出で立ちが、私にヒントを与えない。
「子供を乗せにきたんですよ。この子、なぜかこのブランコに乗ると泣き止むので」
私は両腕で包んでいる清太郎を傾けて、顔を青年の方へと向けた。
「あぁ、それ赤ん坊だったんだ。スイカか何かかと思った」
もうすぐ一歳になる清太郎は、確かに、小玉のスイカを三つ並べたようなサイズをしている。とはいえ子供を果物と間違えるはずもないので、おそらく彼は冗談を言ったのだ。特に笑いもしなかったので、分かりにくかったが。
青年がブランコを囲む柵を軽く飛び越えた。私の前に立つと、お辞儀をするようにして腰を曲げ、清太郎を覗き込む。
「へぇ、すごい。なんか可愛い。触ってもいい?」
「起きるとまずいので、すいません」
「そっか、残念」
言葉と裏腹に、にかっと青年は笑うと、そのまま勢いよく頭を元の場所に戻した。機敏に行われたその動作は、曲がった定規が元に戻る様子を私に連想させた。
「今日は日曜なのに、この公園には誰もいないんだね」
「“こんな日だからこそ”じゃないんですか?」
初対面の青年と、公園で会話を交わしている。私の平凡な毎日からすれば非日常な出来事のはずなのだが、どうにもその事件に対して、私の感覚は鈍感である。それはきっと、もっと大きな非日常に世界中が包まれているからだと思う。
昨日、日本政府から発表があった。
なんでも、大きな隕石が、地球にぶつかるらしい。もう、すぐそこまで隕石は来ていて、地球にぶつかれば、ひとたまりもなく地球は滅びてしまうんだそうだ。
多分漫画のようにパカッと、地球が真っ二つになるのかもしれない。
「偉い人たちが、対策は用意してあるって言ってましたけど。実際どうなんでしょうね」
「対策?」
「テレビ見てないんですか? おっきなミサイルを作ってあって、それをぶつければ、全然大丈夫だとかなんとか」
ずっと前から隕石が地球にぶつかることは予期されていたらしい。日本政府は、アメリカや他の国々と協力して、対策を練っていたのだそうだ。
「何も心配いらないから、パニックにならないように。そんなこと言ってましたよね。それを信じたから、みんな家にいるのか。または、信じずに地球が滅亡する前にどこかに行ってるのか。そのどちらかが理由ですよ。この公園に人がいないのは」
きっと、今人類は、三種類に分けられる。
“隕石が落ちる。でも、ミサイルを作ったから大丈夫”という発表を信じる者。信じない者。そして、前半部分だけを信じる者。の三つだ。
「なるほど」
青年は静まり帰った家々をぐると見回す。まだ日は高いので、明かりでその中に人がいるかの判断は私にもつかない。
「滅亡前にこの公園で遊びたいって人はいないのかな?」
「さぁ、どうなんでしょうか? 相当な思い入れがない限りは来ないでしょう。公園なんて」
去年まであったスーパーが取り壊されて、その跡地に出来たのがこの公園だ。とてもじゃないが、出来て一年では、利用者にそこまでの思い入れを作ってもらうことはできないだろう。
「ちなみにお姉さんは? 隕石のこと、信じてるの?」
血液型占いって信じる? ひと月前にそんなことを聞いてきた客を思い出した。彼の言葉は、それくらい軽快なものだった。
「私は、なんというか、話が大きすぎて。信じるとか、信じないとかそういうレベルに思考がないんですよね」
テレビではすべての番組が取りやめられて、繰り返し政府発表の会見映像をリピートしていた。ニュースキャスターの中には、その情報を隠ぺいしてきた国を糾弾する人もいれば、仕事を投げ出して里帰りした人もいた。
私の仕事先は店長が仕事を投げ出した為、休みになった。おそらくそうしてこまる客もいないのではないだろうか。
そんな世界とご近所の動きを見る限り、少なくともこの状況がドッキリやジョークでないことは理解していた。しかし、雲の上の空の、そのまた上にある大きな岩を実感することはできない。
朝起きてから、清太郎の世話をするに手一杯で、気が付いた時には、普段の習慣通りにこの公園に来ていたのだ。
この青年に話しかけられるまで、隕石のことをすら頭から消えていた。なんとも間抜けな話だが、似たような人は、それなりにいるのではないかと思う。
「君はどうなの? 信じてるの?」
青年は「うん」と子供のように返事をした。
「隕石を? それに対して国が対策をしてあるから、大丈夫ってとこまで?」
「どっちも!」
どこか遠くの方でパトカーの音が聞こえたような気がする。気のせいかもしれない。
青年は、そんなつまらない話よりさ。と言わんばかりに、ブランコの周りの柵へと腰かけた。この場を離れるつもりはないらしい。
「ところで、その赤ん坊はさ、どんな生活をしてるの?」
「生活って……。寝て、起きて、ご飯食べて、遊んで、そしたらまた寝て。それ以外の時間は泣いて。それだけよ」
この子は超泣く。でもそれも、私の祖母に言わせれば楽な方らしい。
「ふーん。そっか。じゃあ、お姉さんは?」
「私も、ただ起きて、仕事して、帰って、また寝て、この子の泣き声で起こされて……。まぁ、そんな感じかな」
「仕事してるんだ。何の?」
社会科見学に来た小学生に質問される人は、こんな気分なのだろうか。青年の目から純粋な好奇心を感じて、それは悪い気分ではない。ただ少し返事を頭の中で編集してから口を開いた。
「まぁ、お客さんと話をして、お酒出して、楽しんでもらうお店よ」
「あぁ、キャバクラってやつ?」
私の気遣いは一瞬で無に帰す。
「俺知ってるよ。キャバクラ。知り合いがよく、行った時の話をしてくれるんだ」
青年はその言葉に、なんの抵抗も遠慮も込めない。新鮮だった。
「お姉さん、すごいね」
「別に、大した仕事じゃないよ」
「ううん。そっちじゃなくて、働きながら子供育ててるってことが。キャバクラに行ってる俺の知り合いは、それが出来なくて、奥さんと別れたんだって」
「キャバクラに行ってたからじゃなくて?」
「どうだろう。僕はそいつの奥さんには会ってないから。それに、そいつ適当な事ばっかり言うんだよ。僕が何も知らないのをいいことにさ」
青年は薄い唇を尖らせながら、眉をひそめた。これみよがしに腕を組んで不服をアピールするが、怒っていると言うよりは、すねている、といった様子だった。
青年はそうしてから、またころりと表情を戻して、私に尋ねた。
「お姉さん、その仕事は好き?」
「好きよ。稼ぎがいいからね」
青年は「あーお金ね。そりゃ大切だ」と呟いた。
「仕事で、つらいことはある?」
「そりゃ、沢山あるわよ。つまらない話をひたすら笑顔で聞いてる時とか、エロ親父をいなす事とか。とにかく疲れるわね。職場の人間関係だって面倒だし、夜型になるし」
話の途中でちらりと清太郎の様子を伺う。聞こえていたら教育に悪いだろうかと思ったが、お腹が膨らむまでの間は、それこそ職場に連れて行っていたのだから、今さらな話だろう。
「好きなことより、嫌いな事の方がいっぱい出て来るね」
「何事もそんなもんでしょ。君はマナーのいいキャバクラのお客になりなさいよ」
「キャバクラかぁ、行ってみたいけど、難しいかな」
青年は公園の端にある時計台に視線を向けてから、またすぐに私に向き直った。
「お姉さん、旦那さんはいるの?」
「まぁ、いたって言う方が正しいかな」
「死んだの?」
「生きてるわよ。多分どっかで。別の女の人とどっかいっちゃったから」
清太郎の目元は、少しだけあいつに似ている。
もしかしたら母親失格なのかもしれないが、こっちが疲れ果てているにもかかわらず、眠らずに夜泣きする時などは、その目元が憎らしく見えてしまう時もある。
「でも、幸せ?」
青年の質問の温度は、会話を始めてから一度も変わらない。端的で、嫌味もない。
「さぁ、どうかしら」
「違うの? 子育ては女の最高の喜びだって、なんかの本で読んだけど」
「今はまだ分からないわよ。試合中に試合の感想聞かれたって困るわ」
清太郎の世話と、仕事を反復横飛びしながら、ひたすらこなす。それがここ最近の生活だ。清太郎が天使のように見える時もあれば、彼が悪魔のように見えることもある。趣味だった旅行もしばらくしていないし、好きなバンドの新曲もまだ聞いていない。
「じゃあさ、お姉さんの夢は? 何?」
「夢?」
「そう。夢」
屈託のない笑顔で返される。彼の笑顔は、どこか清太郎に似ている。形ではなく、無垢さが。
「夢……夢かぁ……」
私は青年の向こう側にあるジャングルジムへ焦点を合わせ、思考を巡らせた。
「小学生の頃は、看護婦さんになりたかったなぁ。あ、今は看護師さん、って呼ぶんだっけか」
「へぇ、看護師! 今もなりたい?」
「別に。その時だって、やってるドラマに影響受けただけだから」
「じゃあ、お姉さんは、何をしたくて生きてきたの?」
私は少しだけ吹き出しそうになったが、清太郎を揺らすわけにもいかず抑えた。
「君は、なんでも聞いてくるのね」
「おかしいかな? あ、怒った?」
「怒ってないわ。むしろ新鮮」
仕事で相手する人は、みんな自分の話をする。私が質問攻めにあうことはあまりない。
「何をしたくて生きてきたのか……」
思い返してみると、明確な目的を見据えて行動したことは、人生の中であまりないかもしれない。親に迷惑かけない為に公立を目指し、留年しない為に勉強し、無職にならない為にOLになり、一人でいない為に結婚し、子供を育てる為にキャバクラで働き始めた。
「その都度、目の前のやらなきゃならない事の為に、やることをやってきたってだけなのよね」
そして、二十八歳の今日、頭の上にはでっかい隕石が落下してきている。にもかかわらず、やりたいこと、やらなきゃいけないことは、正直、思いつかない。
「君は死神かなにか? 死ぬ前に、アンケートでもとってるの? だとしたら、今日は大忙しだね」
「そう呼ばれたことはあるけど、別に死神じゃないよ」
「すごいあだ名ね」
「うん。僕のことを怖がる人も多いんだ」
やはり青年は自分のことは必要以上には語らず、柵からお尻を上げて立ち上がった。
「じゃあ、お姉さんに最後の質問。これからはどう? 何かやりたいことはある? その赤ん坊を看護師にでもしてみる?」
「うーん、別になんだっていいわよ」
基本的に私は、この子が健康で元気に育ってくれればそれでいいと思っている。それこそホストになりたいと言っても、多分止めない。
「あ、でも……一つだけあるかな、夢」
「へー、何?」
「肉じゃが」
「肉じゃが?」
青年が首を傾けた。目を大きくしている。初めて見る表情だ。
「私の家にね、代々伝わる、肉じゃがのレシピがあってさ。基本的に普通の肉じゃがなんだけど、ある隠し味をいれるだけで、すごく美味しくなるの。ひいおじちゃんが、戦争中に船の上でコックさんやってて、思いついたんだって」
「へー。どんな? どうすれば美味しくなるの?」
「それは秘密よ。うちの家の秘伝だもの」
「そりゃ残念だ」
青年は笑いながら眉を傾けた。本当に残念そうだ。
「そのレシピを、清太郎にも教えたいなって思う。いつか」
清太郎の顔を覗くと、まだ、ジャガイモを頬ばることもできない小さな口が、むにゃりと動いた。
「肉じゃがのお店でも開けばいいのに」
「そこまで美味しくないわ」
青年は「そっか」と呟き、首を左右に倒して肩をならした。
「そろそろ行くの?」
「うん、そうするよ。時間も時間だし」
「君の……」
不躾な質問かとためらったが、お互い様だと思い口にした。
「君の夢って何? 隕石が落ちてこなかったら、やりたいこと」
青年は頭をかいてから、空を見上げた。
「うーん。ちょっと決めるのは難しいかな。だって、どのみち僕死んじゃうんだ。もうすぐ」
「死んじゃう?」
「うん。隕石で」
青年は片手を支えに柵を飛び越えてから歩き出した。首だけをこちらに傾ける。
「あ、でも、隕石は落ちてこないよ」
隕石で死んでしまうと言ったばかりの彼が、なぜか断言した。
「なんでそんなこと分かるのよ」
「政府が“対策”があるって言ってたでしょ?」
「おっきなミサイルだっけ?」
「うん、それ嘘」
青年が公園の真ん中で立ち止まる。
「その“対策”って、ミサイルじゃなくて僕のことなんだ」
こちらに体を向けて、青年は笑った。口が広がって彼の奥歯が現れる。治療痕ひとつない綺麗な白い歯だった。
「最後に、自分が守るものが、どんなものなのか知っておきたくて、お姉さんに声をかけたんだ」
彼は「ずっと、研究所の中だったからさ」と補足した。
「今頃政府の人も研究所の人も大慌てだろうな。ははは」
他人事のように笑ってから、彼は私に「話、聞かせてくれてありがとう!」と快活にお礼を述べた。
彼の言葉が、頭の中で分解して消える。難しい言葉など一切なかったのに、意味を理解できずに、返事をすることもできない。
冗談だったのだろうか、ならば笑ってあげないと……、そんなことを考えた瞬間、青年は膝を折り曲げて、体を小さく丸めた。
「ねぇ、君――」
私が言葉を言い切る前に、彼は膝を勢いよく伸ばし、ジャンプした。彼の体は縦にぶれ、一瞬でその場所から消えた。
彼が踏み切った場所を中心に、瞬間的に風が吹いて、砂ぼこりの波が私たちを追い越して後ろへ飛んでいった。
慌てて視線を上へと向けると、彼のジーンズと同じ青色をした点が、どんどん小さくなっていくのが見えた。
やがて、その点が見えなくなった箇所を中心に、白い雲が打ち抜かれた。綺麗な円形の穴が穿たれる。その穴の向こうに映る青空に、もう彼は見えなかった。
「名前……聞こうと思ったのに」
地面には、盛り上がった土できた、大中小の三つの輪っかが、波紋のように残った。私の隣では、ブランコが左右に揺れている。そのブランコの揺れが、収まった頃だった。
遠くで落ちた雷ように、空から鈍い音が降ってきた。きっと元はとても大きな音だったのだろうが、私の耳には、心臓の鼓動のように聞こえた。
その音を境に、空に灰色の煙が広がる。規模から言って煙というより雲に近いそれは、いびつなサンゴのように四方に広がっていく。煙の先っぽは、オレンジに発光していた。
「なんだったんだろう……」
――その“対策”って、僕のことなんだ。
――ずっと研究所の中だったからさ。
――どのみち僕死んじゃうんだ。隕石で。
大きな大きな非日常に包まれて「名前を聞いておけばよかったな」と私の小さな頭は考えた。
清太郎がもぞりと動いて、私の腹を蹴る。
ぼんやりするな。そろそろ起きるぞ。と彼に言われたようだった。それによって、白昼夢の中にいたようなぼんやりとした意識が、頭の中心に戻ってくる。
清太郎が起きた時の為に、おやつの用意をしなくては。
「よっと……」
ブランコから立ち上がり、シーソーの隣を抜けて、公園を出る。
その時だった。
背中から、ばふっ! と音がして、あたりにぱらぱらと土の雨が降った。
振り向くと、目の前の花壇から二本の足がいびつに生えていた。
「うわ! ぷえ!」
ばたばたと足が動き、花壇の中から腹、手、やがて頭が現れた。
煙突掃除でもしたかのような黒いすすが頬についていたが、彼は間違いなくさっきの青年だった。
彼の腰には、おそらくさっきまでシャツだったのであろう布が焼け焦げてぶら下がっていた。ジーンズも片方の膝に穴が空き、所々が黒く焦げている。
「苦い! まずい! うえー」
青年が、口に入った土を必死に吐き出す。
「ちょっと、君、大丈夫?」
青年は自分の体の節々を自分で触ってから、こちらを向いた。
「うん。なんか、平気だったみたい。知り合いから聞いてたより、隕石が一回り小さかったんだ。まったくあいつの言うことはいつも適当なんだから」
青年はそれ以上の恨み言は口にせずに、頭を風呂上りの犬のように左右に振った。髪の毛についていた土が周囲に飛び散る。
「さて、これからどうしよっかなー」
ぼやく彼の姿は、まるで昼過ぎに起床した暇な大学生のようだ。
「あ、そうだ。お姉さん」
「え、あ、はい」
「僕、地球を救ったご褒美に、お姉さんの肉じゃがを食べてみたいんだけど」
青年はいたずらっぽく笑って「ダメ?」と首を傾けた。
おわり